他者に意識があるにせよないにせよ、どうあがいても〈私〉に固有なもの(現実の世界の開き)はここに存在してしまうというのに、私に物理的に似ているというだけの他者が、現実性によって存在が担保されるところの意識を持っていると考える理由がどこにあるのか。私と似ているからという理由だけで、他者にも意識(世界の開き)があると仮定したところで、哲学的問題(私と他者の差異)はなにも解消せず、不要なレイヤーが一つ増えるだけではないか。むしろこの〈私〉に固有なものこそを意識と呼ぶべきではないのか。
「石に意識がない」としても同様なのだけど、それらは社会や言語の問題で、形而上学的な問題ではないと思う。別の言い方をすれば、他我問題の見かけ上の不思議さは、すべて〈私〉の問題に押し付けることができるし、そうすべきではないか
「AI に意識はない」という言説にあまり納得がいかない
数学よ型を持て
私って思春期すぎる
どう考えても一人暮らしをすべきだ (n)
お、chocolatey に Zotero の 64-bit 版が来ている
そうか、夢川さんと羽流さんってアートゥーン周りか(?)